ヤマサ宮原の歴史

明治16年(1883年)6月、初代宮原徳松が新潟より函館に渡り、料理人から蒲鉾製法を学び、恵比寿町から弥生町に登る谷地ノ坂(現:末広町6番8号)の坂下に宮原蒲鉾製造所を開業したのが19歳の時。

その後、順調に経営を続けるも、函館区の半数にあたる約9000戸近くを消失した明治40年(1907年)8月の函館大火で、宮原蒲鉾の工場が全焼。後に間もなく現地に工場を再建する。

大正10年(1921年)、

初代宮原徳松の死去により、2代目徳松が代表者となる。

昭和8年(1933年)には、西川町7番地(現:豊川町)に移転し商売を

広げるものの、またも昭和9年(1935年)3月の函館大火で2度目の工場焼失に見舞われる。しかし、また間もなくして現地に工場を再建する。

時代は移り、昭和16年(1941年)、第二次大戦が勃発。ここ函館も空襲を受けるが、戦時下にかかわらず営業を続ける。しかし、昭和20年(1945)には、建物疎開地域に指定により強制的に立ち退かされ家屋は取り壊された強制疎開のため、宮原蒲鉾の工場も取り壊されてしまう。その後、同年8月15日には終戦を迎えることとなる。

昭和22年(1947年)には、3代目徳松が代表者となり、まだ戦後の混乱の残滓が残る中、昭和23年(1948年)西川町に念願だった工場の再建を果たす。
その翌年の昭和24年(1949年)12月には、工場再建を見届け、2代目徳松が死去。

昭和46年(1971年)3月、3代目徳松の死去にともない、宮原玉が代表者となる。

昭和55年(1980年)8月「有限会社 宮原かまぼこ」に組織・社名変更し、代表取締役には宮原玉が就任。

昭和58年(1983年)11月、五島軒本店に於いて創業100周年記念祝賀会を開催。

昭和63年(1988年)10月、代表取締役に宮原秀夫が就任。

平成2年(1990年)2月に販売会社「有限会社 蒲元」を設立し、代表取締役には宮原一馬 が就任。

平成4年(1992年)6月、現社屋を新築。翌年、平成5年(1993年)10月、4代目宮原 玉が死去。

平成8年(1996年)10月、「有限会社 蒲元」を「株式会社 蒲元」に組織変更。

平成16年(2004年)8月に「有限会社 宮原かまぼこ」と「株式会社 蒲元」を合併し、新会社「株式会社 ヤマサ宮原」に組織・社名変更、代表取締役には宮原秀夫、専務取締役には宮原一馬、取締役工場長には宮原章倫が就任する。

平成18(2006年)年4月、現在の工場を増築し、現在に至る。

ここ函館の地に看板を掲げ、明治16年(1883年)の創業から現在に至る百十年余り、伝統の味を受け継ぎながら、安心・安全で美味しいかまぼこづくりを日々追求し続けるヤマサ宮原です。

沿

明治16年6月

明治40年8月

初代 宮原 徳松が恵比寿町から弥生町に登る、谷地ノ坂の坂下に宮原蒲鉾製造所を開業する。(当時の恵比寿町60番地、現在の末広町6番8号にあたる)

函館大火で工場が全焼する。現地に工場を再建する。

大正10年

初代 宮原 徳松 死去により、2代目 徳松が代表者になる。

函館大火で2度目の工場が全焼する。現地に工場を再建する。

昭和8年

西川町7番地に移転する。

昭和9年3月

昭和20年

函館大火で3度目の工場が全焼する。現地に工場を再建する。

強制疎開のため工場を取り壊される。

昭和22年

3代目 宮原 徳松 が代表者になる。

昭和23年

西川町に工場を再建する。

昭和24年12月

昭和46年3月

2代目 宮原 徳松 死去

3代目 宮原 徳松 死去にともない、宮原 玉が代表者になる。

昭和55年8月

「有限会社 宮原かまぼこ」に組織・社名変更。

代表取締役 宮原 玉 就任

昭和58年11月

創業100周年記念祝賀会開催。(於 五島軒 本店)

昭和63年10月

平成2年2月

代表取締役 宮原 秀夫 就任

販売会社「有限会社 蒲元」を設立。

代表取締役 宮原 一馬 就任

平成4年6月

現社屋を新築する。

平成5年10月

4代目 宮原 玉 死去

平成8年10月

有限会社 蒲元を「株式会社 蒲元」に組織変更。

平成16年8月

「有限会社 宮原かまぼこ」・「株式会社 蒲元」を合併。

新会社「株式会社 ヤマサ宮原」に組織・社名変更。

代表取締役 宮原 秀夫 就任

専務取締役 宮原 一馬 就任

取締役 工場長 宮原 章倫 就任

平成18年4月

現在の工場を増築する。

平成20年6月

創業125周年記念祝賀会開催。(於 花びしホテル)

代表取締役専務 宮原 一馬 就任

平成26年9月

代表取締役社長 宮原 一馬 就任

現在に至る